野球未経験かあちゃんの記録 #08|お手伝いは、母だけのものじゃなくなった

チームと仲間の物語

あの頃の私への手紙#08

お手伝いは、母だけのものじゃなくなった

 ー チーム全体が、ゆっくり、変わっていった頃の話 ー


あの頃のチームは、母親が中心の運営でした。
そこに、二人の登場と、たくさんの頑張りが重なって、
ゆっくりと、空気が、変わっていきました。


少年野球の、チーム運営の話を、書いておきます。

あれは、長男が中学のチームに進んで、
次男が、少年野球で、高学年に上がっていく、その頃のことです。


当時のチームは、父と母の役割が完全に別れていました。

母たちでお当番グループを作り、その日1日の見守りをしていました。
朝、テントを立てたり、シートを広げたり、
コーチの待機場所を整えたり、
それ以外にも行事の運営をしたり、チームの日程の調整など。

父たちはグラウンドの整備や練習のお手伝い(球拾いやグラウンド整備)など。

だから父も母も兄弟児も、家族みんなが頑張ってグラウンドに来ないといけなかった。

中でも
お母さんの多くは

家のこと、仕事、子どもたちの送迎、ご飯、洗濯、兄弟児の持ち物準備や他の習い事の手配など
みんな、本当に、本当に忙しかった。

それでも、母たちは、よく動いて、よく笑っていました。


監督は、いまで言うと、ザ昭和の監督、でした。

めちゃめちゃ、厳しかった。
怒鳴る、長い反省会、忘れ物や遅刻をしたら
練習はできないし、しばらく試合にも出られない。

でも、不思議と、母たちは、その厳しさの中でも、笑っていました。

「また言われちゃってたよー」
「うちの子、また怒られてたわ」
「マジで、笑える」

監督の、ちょっと理不尽にも思える要求も、
いつのまにか、笑いに変えて、楽しんでいました。

子供のために、必死で、覚悟の決まった、いい人たちの集まり、でした。

子供のために必死で頑張る母たちは、本当に、かっこよかった。

それは、いまも、はっきりと、思います。


そんなチームに、新しい監督が、来てくださいました。

時代でいうと、令和の監督、です。

試合中、怒鳴らない。
比較的、無口で、いつも、機嫌がいい。
(そのくせ、普段は、めちゃめちゃ、よく喋る方)

反省会も、長すぎない。
負けた試合の後は、「今日は、私のせいだ」と、言ってくださる人でした。

うちの息子が、腰椎分離症と付き合っていた頃は、
試合前、毎週のように、息子の様子を、聞いてくださいました。
無理をさせない采配を、いつも、考えてくださいました。

いまも、息子が、野球を続けられているのは、
あの監督に、出会えたから、なのかもしれません。

どちらの監督も、好きなんですけどね。
ただ、タイプが、違うのです。


新しい監督に変わってから、2〜3年は、チームは、ちょっと、弱小チームに、なりました(笑)。

たまたま、部員の数も、少なくなった時期と、重なっていました。

「あの強かった頃のチーム、どこ行ったんかね」

そんな声も、たまには、聞こえました。

でも、いま、思います。
あれは、チームが、ゆっくり、変わっていくための、必要な時間だったのだと。


そんな頃に、仲間入りしたお父さんが いました。

次男の、1学年下 新入部員のお父さん。

第一印象を、いまでも、覚えています。

元気な、父さんが、入ってきたなぁ。

強面なのに、めちゃめちゃ、礼儀正しい。
そのギャップに、最初、笑ってしまいました。

ここでは、Aさん、と、呼ばせてください。


入部の少し後に、人づてに、聞きました。

「Aさんのところは、奥様は、野球の手伝いは、一切なし、らしい」

当時のチームは、母親が手伝いに来られない家は、
おばあちゃんが、代わりに、来てくれるくらいの、母親主体の運営でした。

「手伝いに来ない、というのは、ありなんだろうか」

そう、ふと、思った私は、すぐに、自分を、笑いました。

部員不足の、まっただなかです。

「そんなこと、言ってる場合じゃない」
「ぜひぜひ、入ってくださーい」

それが、みんなの、本音でした。

——後日、お会いした奥様は、控えめで、ご主人を立てる、素敵な方でした。
野球経験者のAさんは、たぶん、ご家庭での役割を、ご夫婦で、ちゃんと、決めてこられたのだろう、と思います。

これは、私の、勝手な想像ですけど。


Aさんは、本当に、よく動く方でした。

設営、片付け、買い出し、打ち上げ会場との交渉。
全部、楽しそうに、引き受けてくださいました。

Aさんが入ってから、
チームのお父さんたちが、少しずつ、変わっていきました。

「指示待ち」、から、
「あ、これ、俺 やりますよ」、へ。


ちょうどその頃、一つ上の代の母たちが、動いてくれました。

「当番制を、廃止しよう」

ご近所の人気チームは、当番がなくて、
体験会に来てくれた子たちが、そっちに、流れてしまっていたのです。

「これからは、できる人が、できることをやる、で回そう」

これは、もちろん、父コーチたちの、協力なしには、できないことでした。

仕事のあと 疲れているだろうな。休みたいだろうな。それでも、、子供たちと、汗を流してくださって。
生意気盛りの子どもたちを、注意して、励まして、
打ち上げは、子供以上に楽しんで下さって(笑)。

監督も、コーチも、ボランティアです。
時給に、換算したら、目玉が、飛び出るくらい、です。

神様のような、大人たちが、いてくださって、
ようやく、このチームは、回っています。

そういう方たちが、
「あとは、こっちで見るから、家のことやってきてあげて」
そう言ってくださって、ようやく、制度が、変わりました。


気づいたら、

ある試合の日、
みんなで テントを立てて、設営をして、
応援席で、笑って、行事の運営を話して、
コーチたちは、子どもたちと、汗を流していて、

父母みんなで。できる人ができることをやる。

そういう景色が、ふつうに、ありました。

家のこと。
送迎。
家族の食事。
それから、チームの運営。

ずっと、母中心のものだと、思い込んでいたものが、
気がついたら、

父と母 どちらもやっていました。

(父が単身赴任先から戻ってきた 我が家も。)


でも——

ここから先のことは、書いておきたい、と、思います。

「楽になってよかったね」と、
あの頃の自分に、伝えたい気持ちは、もちろん、あります。

でも、それと、同じくらい、

——あの頃の、必死だった母たちの背中が、なかったら、
いまのチームは、たぶん、ない。

そう、思うのです。

ザ昭和の監督と、母親主体のチームで、
わが子のために、朝早くから、テントを立てていた母たち。
監督の理不尽な要求も、笑いに、変えていた母たち。

あの背中が、あったから、
チームは、ここまで、続いてきました。

ここまで、続いてきたから、
新しい監督が、来てくださいました。
Aさんが、入ってきてくれました。
お父さんたちが、動き始めることが、できました。

私たちが、あの頃、必死で、握りしめていたものは、
無駄じゃ、なかった。

ちゃんと、次の人たちに、バトンとして、渡されていたのだ、と。


新しい監督に変わって、3年後。

次男の代で、いくつかの大会で、優勝しました。
リーグ優勝も、しました。

兄が、味わえなかった「優勝」を、弟の代で、見せてもらえました。

(そのことは、また、別の記事で、書きます)


あの頃のかあちゃんに、もし、いま、声をかけられるなら——

あの頃は、本当に、忙しかったね。

朝早くから、テントを立てて、シートを広げて、コーチにお茶を出して。
家のことも、仕事も、子どもたちの送迎も、全部、抱えて。

怒鳴られた帰りの車で、それでも笑って、子どもに「よく、がんばったね」と言っていたあなたを、ちゃんと、知っているよ。
監督の長い反省会の後ろで、立って聞いていたあなたも、ちゃんと、知っているよ。

大丈夫。

いつか、お父さんたちが、進んでテントを立ててくれる日が、来るよ。
いつか、お手伝いは、母だけのものじゃ、なくなるよ。

でもね。

それは、あなたが、頑張っていたから、なんだよ。
あなたが、覚悟を決めて、踏ん張った日々が、
ちゃんと、次の人に、バトンとして、渡されていくからね。

あの日の汗は、無駄じゃない。

ちゃんと、「頑張りを、次に渡せた母」に、してくれるからね。
ちゃんと、「あの頃の母たちも、本当に、かっこよかったよ」と、言える人に、してくれるからね。

※ このブログは、特定の個人・チーム・指導者を批判する意図はありません。すべて「我が家の場合」の振り返りです。前監督も、新監督も、Aさんも、それまで支えてきた母ちゃんたちも、私にとっては、全員、忘れられない大切な方々です。

※「弱小チームがリーグ優勝するまでの3年間」シリーズ、これから少しずつ書き溜めていきます。よかったら、また読みに来てください。


過去の記事は、こちらから。

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