うちのチーム、部員が足りない。試合にも勝てない。保護者も、なんだか疲れている。
いま、そんなチームにいるお母さんへ。
部員が足りなくて、兄弟児にユニフォームを着てもらっていた我が家のチームが、6年後、リーグ優勝をしました。
この記事は、次男が入部してから卒部するまでの6年間、チームがどんな順番で変わっていったかをまとめたものです。
どん底 23対0、時間切れ
次男が入部してまもなく、低学年の部員は6〜7人でした。試合に必要な11人に、届きません。
部員の兄弟児にお願いして、仮入部してもらいました。
アウェイの練習試合。最初は、雨は降っていませんでした。
点を取られ始めたあたりから、ぽつ、ぽつ、と降り出して、最後はユニフォームも帽子もグローブもずぶ濡れ。
23対0で、時間切れ。
雨に打たれながら整列していた子どもたちの姿を、いまでも思い出す日があります。
→ 少年野球の部員不足 23対0で、時間切れになった、雨の練習試合の日
人を集める 何百枚のビラで、体験会に一人
まず、人が要りました。
学校の許可をもらって、下校時間に校門でビラを配りました。何百枚配って、体験会に来てくれるのは、一人か二人。
結局、兄弟児が来てくれて、なんとか数がそろう。そんな時代でした。
そのうち、SNSで発信するようになって、届き方が変わりました。
でも、いま思うのは、いちばんの部員募集は「チームの中身」だった、ということです。
人が集まるチームになるには、まず、チームを変える必要がありました。
運営が変わる 当番をなくした
元々のチームは、母中心の運営でした。朝のテント設営から、指導者のお弁当まで。
新しい監督になり、ある新入部員のお父さんが入ってきたところから、空気が変わり始めました。
その家は、お母さんが野球の手伝いに来られない家庭でした。ご夫婦で役割を決めてこられたのだと思います。そのぶん、お父さんが全力で動く人でした。
そして 当番を、なくしました。
「できる人が、できることをやる」に変えました。
父も母も、来られる人が、来た順に動く。写真やSNSも、それが得意な人に。
ただし、あの頃の必死だった母たちの背中がなかったら、いまのチームはない。それも、本当です。
仕組みの限界 「できない」を「いいよ」に
当番をなくしても、うまくいかないことはありました。
「できる人」と「できない人」の間に、線が引かれてしまう。善意だけで回すチームの限界を、何度も見ました。
効いたのは、「できないから」「来られないから」を、快く「いいよ」に変える工夫でした。
試合に来られない人にも、できることがある。それを用意しておく。
それだけで、空気が変わりました。
応援が変わる コーチは叱る係、保護者は褒める係
チームには、厳しいコーチがいました。注意された子は、しゅんとなって、次のプレーに集中できない。
信頼しているお父さんコーチが、こう言いました。
「コーチは、ダメなことを、ダメ、と言う係。保護者は、できたことを、全力で褒める係。どっちも、あれば、いいよね」
空振りにも「いいスイング」。エラーにも「次だよ」。
保護者席の声が大きくなると、子どもたちが失敗を恐れなくなりました。切り替えが、早くなりました。
保護者席の空気は、チーム全体に伝染します。
そして、リーグ優勝
「弱いだろう」と言われていた代でした。
その代が、リーグ優勝をしました。
優勝が決まった瞬間、全員が、両手をあげて喜びました。
部員も、保護者も、指導者も。
こんなご褒美があるとは、思っていませんでした。これまでの頑張りが、実った瞬間でした。
なぜ勝てたのか。
うまい子がそろっていたから、ではなかったと思います。
部員と、保護者と、指導者。みんなが、一つになれたから。
6年かけて変えてきたことが、最後に、そこへつながりました。
6年間を、振り返って
あの日、ずぶ濡れで整列していた子どもたちのそばに、一緒にどん底を見ていたお父さんコーチたちがいました。
その人たちは、実は、自分たちもこのチームの出身でした。大人になって、父親になって、帰ってきていたのです。
こんなに素晴らしい人たちが支えてくれるから、チームは続いていくのかもしれない。
いや、こんなに素晴らしい人を育てたのも、このチームなのかもしれない。
——素晴らしい連鎖だな。
いま、部員が足りなくて、雨の中で泣きそうになっているお母さんへ。
我が家のチームは、人を集めるために ゆっくり チームを変えてきました。
当番をなくし、「できない」を「いいよ」にし、保護者席の声を変えました。
少しずつ 少しずつ 変わっていきました。
どん底の景色が、いつか、笑って振り返れる場所となりますように。
※ このブログは、特定の個人・チーム・指導者を批判する意図はありません。すべて「我が家の場合」の振り返りです。
※ よかったら、また読みに来てください。

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